はじめに
太鼓の昔から、フラは楽曲の宝庫として重要な役割を果たしてきた。本書は、遥か昔からハワイの歴史の一部として存在しているフラに提供されてきた数多くのハワイアンソングを収集している。詩の部分においては叙述的な部分を加えており、それは、詩的部分だけでは力不足というわけではなく、詩が意味するふさわしい背景を与え、適切な意味を伝えるられるよう、理解を求める人々の疑問に応えるためである。
フラは古代ハワイアンにとって極めて大きな意味を持つものであった。現代で言うところのコンサートホール、講義室、オペラや劇場などに代わる存在であり、人々にとって主要なそして唯一の社会的娯楽であったと言える。加えて、フラは地域社会全体で、ハワイ国が築いてきた民族としての伝説的過去に生き生きと結びつける役割も果たしていた。
フラの歌にはどれも固有の独特な意味が含まれており、特に叙事詩には豊富な尽きることのない財産と呼べる古代ハワイの叡智や火山の女神ペレ、ペレを取り巻くその他の女神や神々たちに関する素晴らしい伝説が含まれている。そのため古代フラにおける詠唱(チャント)の中には、ハワイ全体を物語るあらゆる種類の物語を網羅されている。ペレ叙事詩(注1)は主として、いくつかの独立した詩が連なって物語を形作るものであり、それは書斎などで読むというよりも、集まった首長や民衆の目と耳、そして心に訴えるものであった。そして、それらは歌い継がれてきた。卓越したメロディーによって奏でられるハワイアンソングにおいて歓喜の調べを最も端的に表現するものは、オリ(oli)と呼ばれていたが、ここで注意すべきは、叙事詩であれ頌歌であれ、オリであれ、ハワイアンの詩はどの種類も基本的には、メレ(mele)であり、そのすべてを貫く叙情的な響きが存在しているという点である。
(注1)叙事詩、というよりも「叙事的な糸に連ねられた一握りの抒情詩」と呼ぶ方がふさわしいかもしれない。
ある民族の内面的な生活を最も雄弁に物語る記録とは、その民族が無意識のうちに歌の中に刻み込んだ記録である。ハワイの人々が自らのライフスタイルについて残したこれらの記録は、内容的にも量的にもきわめて豊かであり、独特である。このようにしてハワイアンの人々は後世に彼らの叡智を残してきたのかもしれない。古代ハワイアンが、生と死という大きな主題、野心や嫉妬、性の情熱や恋愛、夫婦愛や親子愛、自然に対する姿勢、地震や嵐といった畏るべき力、さらには霊的存在や来世の神秘に対して、どのような感情を抱いていたのかを問うならば、その答えはフラの歌や祈り、詠唱の中に見いだされるのである。人々の日々の暮らしの中で息づいてきたライフスタイルそのものが無意識の内に曲の中に盛り込まれ、古代ハワイアン達がどのような感情を持ち暮らしてきたのか、その心の在り方が描かれており綴られた曲の中に、私たちは古代ハワイアンたちの生き様や祈りを理解することができ、それこそがフラの存在意義であった。
フラは現代の私たちに伝えられる過程において、本来フラが持つ宗教的、文化的背景とは切り離された形で紹介され、受け取られてきており、かつての形式や様式の多くが失われてしまったことも事実である。本来は神の領域、つまり宗教的起源を持つ制度であったフラは、近代に至るまでの間に抜け落ちてしまっており、その結果、外国人や評論家の目には、フラはポリネシアの王族たちのどんちゃん騒ぎのための踊り、肉体的な快楽を表現するための官能的な舞踏者たちの艶めいた身振り、という概念に関連づけられるようになってしまった。しかしここで見落としてはならない重要な点がある。それは、フラを演じる男女が表現する身体の動きや所作(視覚的表現)と、彼らが発する言葉(詩や歌詞などの言語的表現)、これらは必ずしも同じ意味を伝えているとは限らない、と言う点である。 ”声は、ヤコブの声である。しかし、手はエサウの手である。(訳注:聖書に登場する人物を例にフラの動きを比喩している)”という言葉の通りである。
実際、今日のフラダンサーたちは、言葉に踊りを合わせていないのが事実である。言葉そのものは古代ハワイへと遡る内容である一方、振付はその時の踊る人の感情によって作り上げられたものか、あるいはクムフラによって決定されたものであり、本来の詩に含まれる本当の意味の多くは、密封された古代ハワイの叡智が眠る棺の中に葬られてしまった。とは言え、現代における振付に本来の意味から離れた不作法があったり、フラダンサーによって意味が湾曲されていたりしていても、古代から存在するフラソングのほとんどが極端に汚れた存在になっているというわけではない。
もしポリネシア理想郷(アルカディア)というものが存在したとするならば、そしてその美しい理想郷からポリネシアンたちが創造してきた文化や歴史における真実の記録(彼らの歓びや悲しみ、愛や嫉妬、家族間のいざこざや、仲直り、美しさに対する祈りや女神、神たちへの祈り)の全てを私たちが理解する術を持っていたのならば、それらの記録は今日まで正しい理解で引き継がれてきたことであろう。しかし、もし誰かがアルカディアの恋愛描写にすら耐えられないほど徳を重んじるのであれば、その者はこの神話を想像から追い払い、修道院か尼僧院へと身を寄せるがよい。
私たちの祖先が継承してきたものを紐解くきっかけに本書が少しでも役立つのであれば、ここで収集した情報やそれに対して提供してきた労力は報われであろう。いわゆる’未開人’と呼ばれてきた人々も、実のところは私たち自身より成長の段階が若いだけの’子ども’であり、その姿は私たち自身もまた祖先の代から通ってきた道である、ということをしmすことになる。それだけでも、本書を完成するに至るまでの労苦は決して無駄ではなかったと言えるだろう。
最初のフラについて知る手がかりは、女神ペレの物語の中に見出される。
ある日、女神ペレは妹たちに、自分の前で歌を歌いながらダンスを踊るよう頼んだ。しかし、妹たちは踊り、歌を歌う術を習ったことがないためできない、と言った。そこへ一番下の妹で最も愛されていたヒイアカがやってきた。姉たちには知られていなかったがヒイアカは、ホーポエという名の美しくも病に冒された友人から教えを受け、密かに踊りの稽古を積んでいたのである。姉たちはまさかヒイアカがフラを踊れるとは思っていなかったので冗談だと思っていたが、ヒイアカが実際に踊りを舞い始めるとそれは何とも美しい姿だった。波が打ち付ける砂浜が踊る舞台となり、空気と共に身体が揺れ、足と手、しなやかに揺れる身体が即興の歌に合わせてリズムを刻み美しく動き続けた。
Look, Puna is a-dance in the wind;
見よ、プナは風の中で踊っている
The palm groves of Kea-au shaken.
ケアアウのパームツリーが揺れ動く
Haena and the woman Hopoe dance and sing
On the beach Nana-huki,
ハエナとホーポエは
ナナフキの浜辺で踊り、歌う
A dance of purest delight,
純粋な歓びに満ち溢れた踊り
Down by the sea Nana-huki.
ナナフキの海の中に呑みこまれていく
このように、本書では技術的な部分においてハワイ語を使用している。初出時にはイタリック体によって他の部分と区別をして紹介しているが、それ以降の部分に関しては通常表記にて解説をしている。用語解説では、詩や散文に使用されている全てのハワイ語を別記で取り上げた。しかしながら、この用語解説だけを単体で使用することによって、ハワイのメレの異文化的な世界を容易に理解できるなどとは、誰も思わないでほしい。多くのメレには、混乱を招かない程度に注釈を添えているが、それらは読者が抱くであろうと推測される疑問のいくつかに答えるためのものである。
最後に感謝の言葉を述べたい。まず第一に、古くからの迷信的な秘匿の慣習を乗り越え、記録されることのなかったハワイ文学の宝庫を、記憶の中から掘り起こしてくれたハワイの人々に。そして、この論文を書き上げるにあたり、多大な協力を捧げてくれた人々に。内容に対して意見を述べてくれたり、間違いを指摘してくれたり、様々な文献を提供してくれた人々にもお礼を申し上げる。そして最後に、中にはすでに他界している人もいるが、制作過程を支えてくれた親愛なる友人たち。彼らの励ましがあったからこそ、この論文はこうして世界に発信することが可能になった。なお、ニューヨークのタイタス・ムンソン・コーアン(Titus Munson Coan)博士においては、本書の校正、編集を含む校閲に忍耐強くお付き合い頂いたことに特別な感謝を捧げたい。
HONOLULU, HAWAII にて
ナザニエル・B・エマーソン

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